損切りは、できた。
これまでの連載を読んでくれた人なら、意外に思うかもしれない。第1回では、僕は損切りができない人間として自分を解剖した。プロスペクト理論、損失回避、確定回避。あの夜だけは切れなかった、と。
でも第4回の主役になるあの夜――2016年米大統領選の夜――、僕は最終的にはちゃんと損切りをしている。決して素早く出来たとは言えないが、ドテン(ポジションの向きを逆転させる)までやってのけた。
問題は、そこから先だった。
損切りができたのに、そこで終わらせられなかった。一度切ったはずのポジションに、また火をつけるようにして、何十回もトレードを重ね、最後はマウスを机に叩きつけて壊すところまで転がり落ちていった。
この記事では、その夜の後半――原点記事ではひとことで済ませていた「取り返そうとして、さらに傷を広げた」の中身を、サンクコスト効果とリベンジトレードという2つのレンズで解剖する。
この記事でわかること
- サンクコスト効果とは何か。「もったいない」がなぜ判断を狂わせるのか
- リベンジトレードが起きる心理的なメカニズム
- 損切りができる人でも、その後に暴走してしまう理由
- 感情に「その場の判断」を任せないための、たったひとつの対策
理論:サンクコスト効果とリベンジトレード
サンクコスト効果――もう払ったのに、まだ払い続けてしまう
サンクコスト効果(sunk cost fallacy)とは、すでに支払ってしまい、もう取り戻せないコスト(お金・時間・労力)に引っ張られて、これから先の合理的な判断ができなくなる心理のことだ。行動経済学の研究では、コンコルド効果とも呼ばれる。超音速旅客機コンコルドが、採算が合わないとわかった後も「これまで投じた開発費がもったいない」という理由で開発を続けてしまった逸話に由来する。
心理学者のアークスとブルーマーによる1985年の研究(Arkes & Blumer, 1985)では、すでに支払った金額の大きさが、その後の継続判断に影響を与えることが実験で示されている。本来、過去に払ったコストは、これからの意思決定には関係がないはずだ。それでも人は「もったいないから」を理由に、損失を広げる方向を選んでしまう。
高校生にもわかるサンクコスト効果
食べ放題で、もう満腹なのに「元を取らなきゃ」と苦しくなるまで食べ続けてしまう。あの感覚だ。
支払った金額はもう戻ってこない。食べても食べなくても同じだ。だとしたら、これ以上食べるかどうかは「今、お腹が空いているかどうか」だけで決めればいい。なのに人は、すでに払った代金を「取り返す」ために、体調を崩すところまで箸を止められない。
トレードにおけるサンクコストは、これのもっと危険な版ということになる。食べ放題なら苦しいだけで済むが、ポジションを持ち続けたり、損失を埋め合わせようとロットを調整したりすると、傷はどんどん深くなる。
リベンジトレード――負けをカッとなって取り返そうとする
リベンジトレードは、学術用語というよりトレーダーの間で使われる実践的な呼び名だが、指している現象ははっきりしている。大きな損失を出した直後、冷静な戦略を組み立て直す前に、感情のまま「今すぐ取り返さなければ」とエントリーを繰り返してしまう状態だ。
ポーカーの世界では「ティルト(tilt)」と呼ばれる、負けが続くと判断の質が崩れていく現象が研究されている。トレードでも構造は同じで、直前の損失によって心理状態が乱れたまま次の判断を下すと、いつもなら選ばないリスクを取ってしまう。
正直に言うと、教科書的なサンクコスト効果は「すでに払ったコストを惜しんで、静かに継続を選んでしまう」という、わりと落ち着いた話だ。でも僕があの夜に経験したのは、そこにリベンジトレードという感情の暴走が重なった、もっとやかましい複合版だった。次の章で、その中身を書く。
経験:大統領選の夜、後半
第2回で書いた「犯人探し」――スプレッドを疑って他社まで見比べた話――の続きから始まる。
結局、原因は自分のスプレッドではなかった。SNSや証券会社の為替情報ニュースを追ううちに、どうやらトランプノミクスによるドル高が進んでいるらしいとわかった。「トランプノミクスだ、ヤバい、逆方向だ」。そう思った瞬間、僕は損切りをして、ポジションを逆に建て直した。いわゆるドテンだ。
ここまでは、悪くない判断に見えるかもしれない。問題は、そのやり方だった。
動揺して、慌てて、焦っていた。ロットもスプレッドも確認しないまま、いつもの感覚で10万通貨以上のポジションを建ててしまった。案の定、ポジションを持った瞬間から大きくマイナスに振れる。スプレッドが開いていたからだ。
「しくじった。ロットもスプレッドも見ずにそのままエントリーしてしまった」
ここが分岐点だった。本来なら、一度全部を決済して、頭を冷やすべき場面だ。でも僕が選んだのは、そのポジションを活かしたまま帳尻を合わせることだった。数万通貨だけ損切りして、残りを10万通貨に整える。「もう建ててしまったんだから」という気持ちが、ゼロに戻すという選択肢を消していた。これが、サンクコストに足を取られた瞬間だったと今なら思う。
そこから先は、戦略と呼べるものがなくなっていった。最初はリスクオフを見込んでドル円を長めの時間軸でショートしていたはずなのに、損切りしてからはドル円ロング、ユーロドルショートと持ち方を変え、1時間足で見たり、15分足に切り替えたり、5分足まで縮めたり。明確な根拠なく、ただ画面をせわしなく動き回っていた。
そして、負けた分を取り返そうと、数分から数時間保有するはずだったデイトレが、数秒から数分で売買を繰り返すスキャルピングのような状態に変わっていった。買っては負け、買っては勝ち、また負ける。大きく負けた直後の心理状態をリセットできないまま次のエントリーを重ねていたから、いつものリズムがまったく戻らない。冷静なときなら、スプレッドが開いている場面で大きいロットを張る危険さくらい、すぐにわかったはずだった。でもあの夜は、通常時と同じ感覚のままエントリーしてしまっていた。
ポジションはフルレバレッジに近い状態だったので、ロスカットアラートが鳴るたびにロットを下げる。少し経つと、また鳴る。またロットを下げる。チャートに張り付いていたから強制ロスカットにこそならなかったし、追加入金もしなかった。でも、ロスカットアラート→ロット縮小、を繰り返しているうちに、口座残高は気づけば20万円から30万円くらいにまで減っていた。

取り返そうとするほど、賭けられるお金は先細っていく――ロスカットアラートのたびにロットを下げ、また鳴る。それを繰り返すだけの夜だった。
勝ちトレードもあった。負けっぱなしだったわけじゃない。ただスキャルピングだったからpipsは小さく、ロットもだんだん縮んでいったから、トータルでは負け越していく一方だった。リスクリワードもへったくれもない。
「もう駄目だ」
そう思って、全ポジションを切った。そして、机の上のマウスを叩きつけた。マウスは壊れて、二度と動かなくなった。
むなしくなって、悲しくなって、情けなくなった。反省した。でも、半日前には戻れない。そのとき僕は、一旦FXをやめようと決意した。
振り返ると、最初の一撃、つまりドテンの瞬間の見切り発車で大きく負け、そこからは取り返そうとして何十回もトレードを重ね、負け越していった。取り返そうとするほど、賭けられるお金そのものが先細っていく。今考えれば、ドテンしたロングポジションのまま黙って監視していたほうが、よほどマシだったと思う。
判断:仕組みに預ける
あの夜の失敗は、判断力がなかったからではない。スプレッドが開いているときに大きいロットを張ってはいけないことくらい、僕は知っていた。知識としては持っていた。でも、頭に血が上った状態では、その知識にアクセスできなかった。
サンクコストとリベンジトレードに共通しているのは、どちらも「その場の自分」に判断を委ねてしまうという構造だ。もう建てたポジションがもったいない、今すぐ取り返したい――そう思っている自分は、たいてい一番判断を任せてはいけない状態にある。
だから、対策は「次はもっと冷静になろう」ではない。冷静さは、あの夜のような場面では最初に失われるものだからだ。必要なのは、頭に血が上った自分に、そもそも判断させる場面を作らせないようにすること。
「今ここで取り返す」と頭に血が上った自分に決めさせるのをやめて、取り返す必要そのものが起きない仕組みに乗り換えた。
毎月決まった額をインデックスに積み立てるだけなら、判断する瞬間そのものが存在しない。負けを取り返す必要も、ポジションを守る必要も、そもそも生まれない。あの夜、僕が本当に必要としていたのは強い意志ではなく、意志を必要としない仕組みだった。
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